終園ルインディア








「ーーーーう、ぁ」


 全身を貫く激烈な痛みで、バチバチと跳ねる火花の如く視界が明滅した。

 両手をぬるりとした感覚が伝う。地面に溜まった生温かいソレにびちゃりと頬を押し付けながら、遠のきつつある意識をすんでのところで掴み続ける。

 今まで丁寧に積み上げてきた何かが、突然の揺れで崩れ去ってしまうような感覚。何かが取り返しの付かない程に壊れてしまったような不安に侵食されながら、少年は泥沼の底へと意識を放擲した。







  ◇◆◇◆


 ぷかぷか。と、言いようの無い浮遊感に身を任せながら、少年は自失のままにただ空を眺めていた。
 歪む雲に薄暗い天球。そして吸い込まれそうな魔力に満ちた、黒い太陽。墨で塗りつぶしたよりも尚黒く見えるその黒輪は、さながら冥土への入り口のようだった。

 漆黒が灰色の空を侵食する。じわじわと空を喰らって穴を広げる黒き太陽は、一つの大きな生き物のように思えた。
 現実感の無い奇妙な空間は、瞬く間に暗黒の渦に侵食されてーー。


「ーーーーーーっ、あ」


 ピクリと、指が動いた。目に映ったのは灰色の天井とゴシック調のステンドグラス。辺りにはアンティーク調のキャビネットやドレッサー、古書が大量に詰め込んである本棚や大量の調度品などが置いてあり、中世の洋館じみた趣きのある一室となっていた。

「……なに、これ?」

 思考が追いつかない。
 どうやら最近は幻覚まで見るようになったらしい。どう考えてもこんな場所はーー。

「ーーーーあれ」

 こんな場所はーー、……異常。なのだろうか。よく覚えていない。というか、理解ができない。眠る前の記憶は霞みがかっていて、思い出そうにもその記憶があやふやで霧のように掴めない。

「……いやいや」

 やっぱり異常だ。少なくとも心はそう訴えかけてきている。それに、こんなきっちり貴族然とした雰囲気の場所は僕にはどうにも合わない。どうせならもっと雑多で温かみのある場所の方が良かったし、そっちの方が性に合っている……と思う。

 などと若干現実逃避気味に思考を巡らせていると、がちゃり。と部屋の扉にしては随分と重苦しい音が響いて、前方の無駄に装飾の凝った扉が開いた。

 部屋に入ってきたのは少女だった。しなやかな肢体に艶のある黒髪、足元まで覆い隠すダークブルーのドレスのスリットからチラリと見える生脚は、少女の幼さに相反して妖艶な魔力を纏っていた。

 ーーその姿を見た瞬間、一瞬。たった一瞬だけ、脳裏に掠れた映像がフラッシュバックした。永い時間に掻き消された、いつかの僕が視た風景。

 心臓がドクンと跳ねる。何故だか分からない高揚感。全身が熱くなってよく分からない衝動に駆られる。けれどその発端が分からない。何を、どうしたいのか。それが寸分も理解できないまま、僕はただ少女を見つめる。

 雪白い肌と蒼黒のドレスが対照的な少女は、温かみのある笑顔でこちらへ駆け寄ってくると、中世風のベッド……の上で呆然としている僕の上へと全力でダイブした。

「げふっ!」

「お帰りなさい、お兄ちゃん! いい夢は見られた?」

「……い、いまいち状況がよく分からないんだけど、とりあえず壁にぶつけた背中が痛いな……。あとなんか手が柔らかいんだけど」

「お兄ちゃんが私の胸を触ってるからじゃない? えっち」

 ふにゃりと慎ましやかな胸がドレス越しに僕の手を飲み込みーーはしなかった。僕の手が沈んだのは指の幅の半分がせいぜいだ。ただし、柔らかい。ものすごく。

「え、えぇ……。僕はただ君をちゃんと受け止めてあげようとしただけで、そこにやましいことはひとつも無いんだけど……」

「むぅ……嘘つき。でもお兄ちゃんならいいよ。知ってる? 女の子のおっぱいって揉んだら大きくなるんだよ。……ほら」

「なんで胸を突き出してくるのか……」

「揉んでいいよ。お兄ちゃんの好きな大きさにして良いんだよ……」

「まな板をどうやって揉めと」

「喧嘩売ってるのかな、お兄ちゃん?」

「じょ、冗談だよ。首締めないで、苦しいから」

 両手を挙げてギブアップのジェスチャーをとる。少女も冗談のつもりだったようで、僕が降参するとすぐに放してくれた。冗談にしては目が本気だったが。

 そうして見つめ合うことしばし。僕は本題を切り出すことにした。苦手なことを先延ばしにするのはよく無いこと……だと思うから。

「…………それで、えっと。言いづらいことなんだけど、……君は誰だい? 僕の知っている人なのかな?」

 少女に面と向かって正直に問いかける。少女は僕のことを「お兄ちゃん」と呼んだが、当の僕には全く心当たりが無い。
 だとすれば、思い出せない記憶の中にその真実があるかもしれないが、そんな不確かな憶測で少女の兄を名乗るのは何か違う気がした。
 それは少女にとっては辛い真実なのかもしれない。けれど、なぜか僕は、この少女にだけは嘘を吐きたくないと思ってしまった。

 けれど、少女はそんな僕の言葉を予期していたかのように頷くと、にこりと笑って言葉を返す。

「……やっぱりお兄ちゃんは優しいんだね。昔からずっと変わってない。……ずっと。私はそんなお兄ちゃんが大好きだったの」

「……えっと、ごめん。よく分からない」

「ううん、いいの。……私は暦。お兄ちゃんの妹で、恋人。また会えて嬉しいよ」

「……やっぱり、僕の妹?」

「そう、…………そしてここは私の箱庭。私とお兄ちゃんだけの秘密の場所。二人きりの世界。……お外、出てみよっか」

「ーーあっ、ちょっと」

 言葉を返す間も無く、暦は僕の手を引いてこの奇妙な部屋から僕を連れ出した。
 扉の先は廊下になっていて、しばらく進むと吹き抜けの構造になった玄関の二階部分に出た。一階を見下ろすと、エントランスから伸びた階段が途中の踊り場を通って左右に分かれていて、その周りには壺や絵画といった豪華な品々が嘘のように並んでいた。  

 それらの調度品を全て無視して暦は玄関とは反対方向にあるーーこれまた階段を登って、少しばかり狭い三階に僕を連れ込んだ。
 正面にある大きめのバルコニーの扉を開け外に出ると、暦は空を遮るように僕の前に立って手招きする。

「こっち、お兄ちゃん。……絶景だよ」

「ーーこ、れは」


 異様、に見えた。
 空を覆う黒い太陽。天球を喰らうようにその身を肥大させた黒天は既に空の半分を侵食していた。

 その光景に、僕は既視感を感じる。

 夢で見た景色。しかし目覚める前の夢では黒い太陽はもっと大きかった。それはこれから起きる事なのか、だとすれば、天球の全てを漆黒が飲み込んだとき、一体何がどうなるのかーー。


 ……いけない。思考が纏まらない。


 冷や汗をぬぐって深呼吸をする。暦の手を強く握り返しながら、僕はただ動悸が鎮まるのを待ち続ける。

 天空は暗いというのに、世界は明るかった。いや、世界……というには少しここは狭いのかもしれない。
 僕と暦が立っている屋敷のバルコニーからは、世界の全てが見渡せた。どうやらこの屋敷は小高い丘の上に建っていて、この世界で一番高いところにあるらしい。全景を見渡してみても遮るものは何も無い。
 けれど、地平は見えなかった。なぜなら、この世界の果ては断崖だからだ。まるで、もっと大きな世界からこの空間だけをハサミで切り取ったかのような、そんな粗さ。世界の果ては今もなお緩やかに崩れ続けて、その範囲を狭めていた。

 僕がこの世界を把握したのに気付いたのか、暦は僕の両手を握って言葉を紡いだ。


「ーーここはね、この世のどこにも存在しない私の……私達だけの世界。世界のどこにいても絶対に幸せになれない私とお兄ちゃんが、幸せになれる場所。ありとあらゆる煩わしさから解放された、二人だけの箱庭」


「……あ」

 思考はバラバラで、その一切を理解出来ていない。ーーけれど、直感的に解ってしまう。

 この世界こそが、僕の求めていたものなのだと。そう、理解出来てしまう。

 刹那、既知の映像が流れ込む。血に濡れた両手と、雨の中に沈む僕の姿。やけに鮮明なその記憶は、おそらく、ここに来る前で一番新しい足跡。


 ああ。


 つまり僕は、死んでしまったのだ。


 現世のどこにも無い場所を求めて、生という無限地獄から解放されて、今、僕はここにいる。

 ーーおそらく、彼女も。

「……お兄ちゃん、もう一度私の手を取って? ここなら誰にも、世界にだって邪魔はできない。だってここは私達のための世界だから。ーーだからーーっ、んっ」

 咄嗟に。そう、咄嗟だった。
 深いことは考えていない。なぜなら、そうする必要が無いから。あらゆる悩みは全て消えた。倫理観のような煩わしさは、この世界には要らないものだ。妹だからだとか、そんなことは、考えることもしなかった。
 だから僕は、暦が儚げな微笑を浮かべた時、何かから解放されるように暦の華奢な身体を抱きしめーー

kiss

 ーー唇を、奪っていた。

 ふわりと、柔らかに触れ合う。暦のしっとりとした唇の感覚が僕の脳を焼く。全身が熱くて堪らない。側からみれば僕の顔は茹で蛸のように赤くなっているだろう。けれど、止めない。口付けをしてなお止むことの無い熱が全身を貫き、その感覚が促すままに僕も、暦もお互いを求め合う。

「ーーん、っ……。は…………ぁ、んっ」

 不思議な感覚だった。息苦しい筈なのに心地よくてたまらない。この感覚をもっと味わっていたい。抱きしめた身体は柔らかで、その温かな熱がこんなにも愛おしい。

 気持ちが膨れ上がってくる。記憶は無いのに、愛しさは残っている。そのおかげで、やっぱり僕にとっては暦が世界でたった一人の妹で、恋人なのだと、心から実感できた。だから、僕はーー

「ーーっ。……暦、その先は僕に言わせて欲しい」

 一拍置いて、続ける。

「ーー僕の、恋人になってくれないかな?」

 暦の目が、見開かれる。

「ーーっ、……お兄ちゃん。もうっ、私が言おうと思ってたのに……!」

「はは……、ごめんな。ーーそれで、返事、聞かせて貰ってもいい?」

「お兄ちゃんの意地悪……」

 拗ねた表情をしながらも、暦の瞳は潤んでいた。頬がほんのりと桜色に染まって、見惚れる程に愛らしい。

 今度は、僕が手を差し伸べる。それは、ちょっとしたお返しと、一握りの我儘。

 その手を、暦の滑らかな手が握った。

「ーーはい、私はこれからもずっと、お兄ちゃんの恋人です」

 ーーその、幸せそうな笑顔を見た瞬間。やはり僕はここに来て良かったのだと、そう、心から思ったのだ。




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